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往生すればその姿は如来と同じ 「無量寿経」を読みながら気付く [仏教]

極楽往生、という言葉があります。
極楽も往生も最近は「死語化」しつつあり、
極楽は天国に、往生は「昇る」、つまり天国に昇る、
という言葉の方が伝わりやすくなっていますが、
「無量寿経」を読みながら、改め気付いたことの一つは、
極楽に往生すれば、その姿が如来を同じになるということです。

阿難、
それ衆生ありてかの国に生るるものは、
みなことごとく三十二相を具足す。

この一節は世尊、すなわちお釈迦様が、
弟子の一人である阿難尊者に向かって
語りかけた言葉です。

衆生というのは我々のこと、
かの国は極楽、
三十二相とは如来に具わる特徴のことです。

つまり我々は極楽に生まれれば、
如来と同じ姿になる、ということが、
「無量寿経」では確約されていることになります。

うーん・・・・頭が鏡餅のようになり、
髪の毛はパンチパーマになり、
額には大きなほくろが出来て、
目はいつも薄開きの半眼で・・・・
という姿に生まれ変わるということか・・・・

昔、「帰ってきた酔っぱらい」という歌がありました。
「天国いいとこ、一度はおいで、
酒はうまいし、ねえちゃんは綺麗だ」
こっちの方が楽しそうな感じですね。

築地本願寺さんでイベント「築きな祭」 5月24、25日の両日 [仏教]

築地本願寺さんで(東京都中央区築地)、
5月24、25日の両日、イベント「築きな祭」が開催されます。

このイベントは築地本願寺が出来て350周年を記念して行われるもので、
トークショウ「日本一うまい魚の食べ方」(魚河岸太郎さん)、
トークショウ「築地鰹節問屋・うんちく講座」
など、築地ならではのイベントに加えて、
ちひろさんによる金子みすゞの詩の朗読、
クレイジーエンジェルカンパニーによるライブなども行われます。

詳しくは築地本願寺さんまで!!!!
http://www.tsukijihongwanji.jp/


互井観章先生の経王寺ホームページが新しくなりました [仏教]

東京・新宿区の経王寺ホームページがリニューアル!
互井先生という素晴らしいお坊さんのHP。
様々なイベントも展開しており、
HPもとても楽しいものとなっています。

イベント内容に特に注目!して下さい。

http://www.kyoouji.gr.jp/index.html


京都仏像彫刻家協会 ちょっと素敵な仏たち [仏教]

先日、京都で開催された京都仏像彫刻展(主催・京都仏像彫刻家協会)ぬ出品された仏像のうち、
ちょっと素敵な仏さまをアップします。

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須藤光昭氏の四面大日如来像です。四面の大日如来は、はじめて見る気がします。京都らしい美しい金箔仕上げ。

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冨田珠雲氏の阿弥陀如来像。最近、こうしたお顔の仏さまは少数派。でも、伝統を感じさせる力作です。

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写真の無断転載を固くお断りします。著作権・宗教工芸社

坪田最明氏の釈迦如来像。坪田氏の作風を初めて感じた作品。

生きている時間より、死んだ後の方がよほど長い [仏教]

 一昨日、東京・墨田区吾妻橋の近くにあるお世話になっている
お寺様に年末のご挨拶にお伺いしました。
 大黒様(お寺の奥様)の印象的な話を一つ。
「生きている時間はわずか、死んだ後は長いからね。」

「極楽」という短い小咄があります。
「あのよーー」
はい終わり。分かりました?
「あの世」ですよ。


泰山府君と赤山禅院 3 [仏教]

 威海から少し内陸に入った場所に文登と呼ばれる町があります。九世紀初頭、この文登で大きな力を持った新羅人が張保皐(弓福、弓巴という名も持ちます)でした。彼は790年頃に朝鮮半島南西部に生まれ、その後山東半島に渡り武人として活躍。没年は846年(暗殺される)。赤山法華院を建立した人物です。 
円仁が入唐したのは838年で帰朝したのが847年ですが、赤山法華院には839年6月16日に到着しています。
この円仁を様々に助けたのが張保皐でした。円仁は不法滞在を望みますが、その不法滞在のために尽力し、円仁の天台山への旅行許可証を取り付けたのも張保皐でした。
現在、日本からの進出メーカーがこの文登県で唐木仏壇の工場を経営していますが、円仁のことを思うと、不思議な仏縁だと思います。

赤山禅院では毎年11月23日に京都珠数製造卸協同組合主催の珠数供養会が開催されますが、赤山禅院には泰山府君、山東半島文登、赤山、張保皐という関わり合いの中で建立されたということがよく分かります。


会津の母親殺しと業 [仏教]

会津で高校生による母親殺害事件が起こりました。頭部切断、加えて腕も切断されていたという報道を見ると、どうして母親を….と思います。
仏教では五逆(ごぎゃく・五逆罪)と呼ばれる罪があります。これを犯せば無間地獄に陥る最も重い罪です。
阿羅漢(聖者)を殺すこと、仏身を傷つけること、出家者の集団生活を壊すこと、そして父を殺すこと、母を殺すことが五逆です。
 しかし、わざわざ五逆として父母を殺すことが挙げられているということは、父母殺しが、古くからあったということになります。

 奈良の進学校に通う生徒が放火により殺したのもやはり母親でした。父親ではありません。何故か殺されたのは母親です。そのことを思うと、男の子の心の中に棲む母親像が難しい存在であるということに気付かされます。
  
 母親、つまり母性原理は生み出す力と飲み込む力の両面を持っています。そのことは女性に例えられる海のことを思えばよく理解できます。命の源である海(水)、そして簡単に人を飲み込んでしまう海。
 子供はこの母親の力から脱出するために、精神的な母親殺しをするものだと考える心理学(ユング派)もあります。もちろん同時に精神的な父親殺しも必要となります。そうした「殺す」という作業は、母や父からの精神的な独立を意味しています。

 母性原理はもちろん父性原理と対になるもので、どちらか一方だけで成り立つものではありませんが、今回のような事件は強まる母性と弱まる父性という時代の流れの中で、さらに生まれてしまう事件のように思えます。

 戦前であれば、我々はこうした殺人事件の蔭に「業(ごう)の深さ」を見たはずです。その業の深さは、先祖から引き継いだ、一種の負の遺産です。その業の深さを知り、自分自身に対しての業の深さを知る時に、信仰も生まれたのではないでしょうか。
 どうしようもないこと、今回の事件もまず病的です。その病的で狂いそうな世界は、全ての人にとって遠い世界のことではなく、すぐ目の前にある世界のことです。人間はいとも簡単に気が狂ってしまう、そんな危うい存在、綱渡りしながらの存在だと思っています。
 今はこうした事件が起きるたびに、ニュースの解説者として心理学者などが登場し、「誰それに心のケアが必要だ」という言葉を無制限にはき出しますが(そのこと自体は間違いがないと思います)、一昔前であれば「ああ、なんて業が深い、恐ろしいことだ」という言葉に、多くの人が共通の理解の土壌を持っていたようにも思います。

 この人としての業の深さを知ること、教えることが、現代の教育の中で最も必要だと思います。業の深さを知ることは、危うい自分を知ることで、そこから哀しみ、優しさが生まれて来るのではないでしょうか。


先祖供養 3 [仏教]

今月号の中央公論で梅原猛さんが、
『「怨霊」と「成仏」の日本文化論』を寄稿しています。
先祖供養と「怨霊」と「成仏」は大切なキーワードです。

右大臣菅原道真は九州太宰府に左遷され、その地で憤死。
その道真の怨霊が宮廷に祟り、人々はそれを怖れ、
道真を御霊(ごりょう)として祀るようになります。

戦乱や政争により非業の死を遂げた人は怨霊となり、
人々に様々な災いをもたらすようになる、と平安時代の人々は
強く感じていました。
道真が憤死した後、日照りや皇子たちの相次ぐ死、
さらには宮中清涼殿には雷による被害があり、
宮廷人はこれを「道真が怨霊の祟り」として考えるようになったのです。

この時代には道真以外も吉備真備や橘逸勢など「御霊」として祀られた人々が
結構いました。
道真の場合には天神と呼ばれ、天神社、天満宮は全て道真を祀るもので、
皆さんご存じのように、学問の神様として崇敬を集め、
多くの受験生は各地の天満宮、天神社を訪れ合格を祈願するのです。

つまり、祟る怨霊は祀られることにより「御霊」となり、
私たちに幸いをもたらしてくれる霊になるわけですが、
この怨霊と御霊の関係は平安時代以前からあり、
現在にまで続く信仰です。

この御霊の考えは、実は仏壇を支える大切な信仰の柱です。
怨霊が御霊になるということを仏教的に言えば「成仏する」と言えるからです。
亡くなった人を仏壇にお祀りしなければ災いが起きる。
亡き人は親であれ子であれ、亡くなれば異界の存在であり、
放っておけば災いをもたらす怨霊になるかもしれない。
それは、死そのものへの畏怖、恐怖が生み出す感情でした。

父母、祖父母が亡くなった後、
かわいがってきた子孫に不幸をもたらすはずはない、
と説明する向きもあるようですが、
死霊に対して怖れを抱くことは、日本に限らずあらゆる世界で見られたことです。

先祖を祀らないと不幸が訪れる、という考えの背景には
こうした日本人の伝統的な精神文化があります。

梅原さんはそうした畏怖を無くしたことが、
現代の精神文化を荒廃させていると主張します。
そのことに対しては僕も全く同感です。


先祖供養 2 [仏教]

 先祖供養はしばしば批判を浴びます。批判されるのは「先祖を供養しないから不幸になる」「先祖供養しなければ悪い事が起こる」という主張と、それを主張する人々による金銭活動に対してです。
例えば「何代前の先祖の祟りがあるから、不幸なことが連続して起きる。その祟りを取り除くためには幾らかかる」という言葉を信じ、莫大な金銭を投じる人がいます。その人が「騙された」と社会に訴えれば、「宗教は詐欺」と批判を浴びることになります。

 しかし、詐欺か否かの境界線は明確ではありません。ただ、金銭絡みになった場合、その額が大きければ社会問題となります。常識的なお布施程度、つまり数万円のことであれば社会慣習上、それほど問題にならないはずです。

 宗教は危うさを常にはらんでいます。天国にしても、極楽にしても、それを信じない人にとって単なる虚構にしか過ぎません。
 先祖供養もまた、先祖の霊があるか、ないか、という論議になると、人によっては単なる虚構としてしか感じられないはずです。
 しかしその一方でその危うさが宗教の魅力ともなっています。その魅力は合理に対しての非合理という言葉で表現できるかもしれませんし、神秘的なものに対しての憧憬かもしれません。

 テーブルマジック(手品)が最近改めて注目されているようです。間近に、それもマジシャンの息が聞こえるほどの距離で手品師が演じるのですが、見ている側にはどうしても種も仕掛けも分からない。僕もそうした番組を見ながら、凄いなと思うのですが、そこには種も仕掛けもあるという大前提があり、そのことに対しての一種の安心感もあります。もし、種も仕掛けもなく、ガラスコップの底から十円玉が突き抜けるということがあれば、それはまさに宗教的な奇蹟ということになります。
 宗教が説く世界は、基本的に目に見えるもの、手で触ることのできない世界で、種や仕掛けという終わりはありません。


先祖供養 1 [仏教]

 浄土真宗では先祖供養をしません。そのことを最近は特に強調します。宗派としての教義に沿った教えを説くことは、全く正しい行いですが、正しい教えを説くことで真宗に帰依する人が増えるかどうかということは別問題ですが・・・・・

 そこで今回は浄土真宗がなぜ先祖供養をしないのか、ということを説明しながら、日本の供養浄土についてお話ししたいと思います。

 仏教が行う先祖供養とは何でしょうか。それは死後観、来世観と深い関係があります。
 
 浄土真宗では亡くなると極楽浄土に生まれます。阿弥陀如来が主宰する仏教の理想郷の一つです。浄土真宗のお寺によっては「仏」になるとも言います。ここで言う仏とは、遺体を「ほとけさん」と呼んでみたりする仏さんではなく、仏教的な仏です。ただし、如来であるとか菩薩であるか、ということは言われないようです。あくまでも、阿弥陀如来が中心に在す理想の世界(それは苦しみのない世界)に生まれることができる、ということです。

 しかし浄土真宗以外の他宗派ではそのように考えません。亡くなった人に対して、追善供養しなければ成仏できないと考えるのです。
 
 追善供養というのは冥界にいる故人に向けて「善」を送ることです。どのようにして善を送るのかと言えば、自分が仏に供物を差し上げたり、読経をしたり、お線香、灯明を上げたりすることで善を積み、その善を冥界にいる故人に送るのです。
 何故善を送るのかと言えば、仏になるためには善を積まなければならないからです。積善が成仏の条件なのです。一定量の善を積まなければ成仏は不可能ということになります。

 一方、浄土真宗ではその教えにより、亡くなった人は、すでに理想郷である極楽浄土にいるわけですから、遺された者が「善を送らなければ、おじいちゃんは成仏できない」と心配する必要はないわけです。

 では、なぜ、成仏できるかどうか、ということが先祖供養の論点になるのでしょうか。
 そこには仏教だけではなく、日本の伝統的な宗教観、極東アジアの宗教観が影響しあってます。それらの宗教観は土着宗教とも言うべきものですが、中国仏教にしても日本仏教にしても、その土台の上に成立してきました。

 その土着の部分には習俗・迷信・俗信と言われるものが堆積して出来たものです。
 
 追善供養は土着部分の宗教です。ですから一部の宗派からは、本来の仏教ではないと見なされj排除されるわけですが、排除することは自分自身の土台を削りことを意味し、自身の存在そのものを将来的には揺るがせることになります。


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