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「しきたり本」 [宗教]

書店に行くと、宗教書のコーナーがあります。
もしくは宗教書が集まっているコーナーでしょうか。
五木寛之さんや瀬戸内寂聴尼の本も大枠では宗教書になりますから、
ずいぶんと多くの人が宗教書をひもといているんだろうな、と思います。

でも自分にとっての究極の?は宗教って何だろうということです。

今日は取材先で「しきたり本」のことが話題になりました。
「しきたり本」は一体誰が読んでいるのだろうか、と。
まあ、年齢層で言えば幅広くということになるのでしょうが、
僕が反射的に思ったのは60歳以上の方々。
自分自身に身についた「しきたり」を再確認するために
読んでいるのではないだろうか、ということです。

「しきたり」と宗教性は比較的相似形ではないかと思います。
なぜかと言え宗教にとって「しきたり」は不可欠だからです。
特に宗教における「しきたり」は儀式の根本を為すもので、
場合によっては「秘伝」「秘儀」であったりします。

茶道や香道にも所作という「しきたり」があります。
「しきたり」を通して茶道や香道はその心を伝えてきました。
勝手にお茶を飲む、適当に香りに嗅ぐ、というのでは「道」になりません。

この「道」というのが「しきたり」ということにも気づかされます。
先日、新聞を読んでいますと、柔道の山下泰裕さんが
「柔道は勝ち負けのスポーツではなく、相手を尊敬する、相手を思いやるスポーツ」
ということを語っていたのが目に入りました。
柔道は一人でやるものではありません。相手が居てこそ成り立つものです。
礼で始まり、礼で終わるというのが柔道を含めた武道のあり方で、
そこにはやはり「しきたり」の香りが濃厚にします。

実は電車に乗るのにも、バスの座席に座るのにも
一定のしきたりがあります。
それは相手を思いやる心です。
それがあってこそ、快適な車内になるのです。

以前読んだ本で「商人道 江戸しぐさ」というものがありました。
東京の地下鉄では車内マナーの公共広告にもなっていましたが、
「袖振り合うも他生の縁」。
つまり、車内でたまたま一緒になるのも先祖のご縁。
一歩下がって「させて頂く」「仏様のおかげ」という方が
お互い楽なんだろうと思います。

そうすると「しきたり」「道」「しぐさ」は
宗教的な視点から自分が見られているという方視点を持ち暮らすことが
いかに「楽なのか」ということになります。

車内でとんがって踏ん張るより、
もっと「楽に」「楽しく」という時には、
他生の縁から生まれる「しきたり」「しぐさ」を大切にしたいものです。

「しきたり本」が注目される背景には
一定のルールで生きることの「楽さ」があるのでしょう。


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