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仏壇業界の業(ごう) [仏壇]

業深きもの達へ

 「佛に値札を付けるとはなんと業深きこと」というニュアンスのことを記したのは直木賞作家の車谷長吉。姫路出身の車谷は、幼少の頃、祖父か祖母あったかに連れられて姫路の別院に通い、その帰り道に仏壇店によることを常にしていたが、「ありがたい」という仏像に値札が付けられているのを見て、値札が付いていれば鼻紙と変わらないということを思ったと、何かのエッセイに書いていたことを強烈に覚えている。

 仏壇業界に棲む人たちは、そのことを殆ど思わないようだが、仏像に値札を付けて売買するということは、結構これはこれで業深いことなのかもしれない。

 業界に棲む人々の業、ということについて初めて感じたのは、ある京都の仏師の工房でのことであった。

 現代日本を代表するその仏師の工房は予想していたよりも遙かに大きなもので、たくさんのお弟子さん達が彫刻刀をそれぞれのレベルで動かしていたが、数人の女性がその中に混じっていた。

 ところが、彼女達がこれもまた意外に美しかったのだ。何もこんなところで仏像を刻んでいなくても、十分楽しめ、ちやほやされる時間が過ごせるに、と思ったものだ。

 何が彼女達をそうさせているのか。直感的に思ったのが実は業である。

 前世、あるいは前々世、あるいは遙か過去世の何か縁によってここで仏像を刻んでいるのだろうと。さらに言えば、その光景は過去世の償いようにも見えた。

 仏壇店の人々もまたある種の過去世を背いながら生きているように、時として思うことがある。
 それは過去世の償いなのだが、実際には、さらに業を重ねているように見える。

 車谷がいうように仏像に値札を付ける、ということもさることながら、様々な「あたかも」を交えながら仏壇を販売する。例えばあたかも自社工房の製品、あたかも日本製、あたかも黒檀のように、という様々な「あたかも」だ。また、あたかも「大幅値引き」という実例も無数にあり、業界を悩ませている。

「あたかも」状態で販売することには対しては世俗法令が規制を多少なりとも実施をしているが、業界が自覚するべきことは自身の業の深さについてではないだろうか。

「産地表示?どうしてそんな儲からないことをしないといけないのか?」と面を向かって言われて愕然としてことがあるが、この時はその人の業の深さを感じずにはいられなかった。

 中国やベトナム、インドネシアでは仏壇が作られているが、そこで仏壇を作っている人は、どのような因縁があって、仏壇を作る仕事に関わっているのだろうか。縁もゆかりもない日本人しか祀らない仏壇を彼らは作っているのだろうか。中国であれば仏像や位牌が作られているわけだが、彼はよほど過去世で日本との縁があったに違いないと、しみじみと思うことがある。

 我々の棲む現世は仏教のタイムテーブルに従えば「末法の世」である。親鸞は「善人なおもて往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」と末法の世の中を暮らす人々に対して一筋の光明を与えたが、そこにあるのは強烈な悪人意識だ。この悪人意識こそ、現在の仏壇業界に必要なのかもしれない。

 仏壇販売に対して「手を合わせてくれるものを作っている」ということは誇りになるが、それに値札を付けて売っていることは「いわんや悪人をや」の部分だ。

 そう言えば、ごく親しい仏壇店に真宗僧侶の資格を持ちながら仏壇を販売している人がいるが、彼を見ていると「親鸞上人以外の教えでは、この人は救われない」と強く思ってしまう。

 ちなみに自分は、そうした業深き人たちに付属しているような存在で、さらに一層業深い。

仏壇店に行ってみよう
http://www.butsudan.kogeisha.com/
鎌倉花寺巡り
http://www.kamakura.kogeisha.com/

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