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先祖供養 3 [仏教]

今月号の中央公論で梅原猛さんが、
『「怨霊」と「成仏」の日本文化論』を寄稿しています。
先祖供養と「怨霊」と「成仏」は大切なキーワードです。

右大臣菅原道真は九州太宰府に左遷され、その地で憤死。
その道真の怨霊が宮廷に祟り、人々はそれを怖れ、
道真を御霊(ごりょう)として祀るようになります。

戦乱や政争により非業の死を遂げた人は怨霊となり、
人々に様々な災いをもたらすようになる、と平安時代の人々は
強く感じていました。
道真が憤死した後、日照りや皇子たちの相次ぐ死、
さらには宮中清涼殿には雷による被害があり、
宮廷人はこれを「道真が怨霊の祟り」として考えるようになったのです。

この時代には道真以外も吉備真備や橘逸勢など「御霊」として祀られた人々が
結構いました。
道真の場合には天神と呼ばれ、天神社、天満宮は全て道真を祀るもので、
皆さんご存じのように、学問の神様として崇敬を集め、
多くの受験生は各地の天満宮、天神社を訪れ合格を祈願するのです。

つまり、祟る怨霊は祀られることにより「御霊」となり、
私たちに幸いをもたらしてくれる霊になるわけですが、
この怨霊と御霊の関係は平安時代以前からあり、
現在にまで続く信仰です。

この御霊の考えは、実は仏壇を支える大切な信仰の柱です。
怨霊が御霊になるということを仏教的に言えば「成仏する」と言えるからです。
亡くなった人を仏壇にお祀りしなければ災いが起きる。
亡き人は親であれ子であれ、亡くなれば異界の存在であり、
放っておけば災いをもたらす怨霊になるかもしれない。
それは、死そのものへの畏怖、恐怖が生み出す感情でした。

父母、祖父母が亡くなった後、
かわいがってきた子孫に不幸をもたらすはずはない、
と説明する向きもあるようですが、
死霊に対して怖れを抱くことは、日本に限らずあらゆる世界で見られたことです。

先祖を祀らないと不幸が訪れる、という考えの背景には
こうした日本人の伝統的な精神文化があります。

梅原さんはそうした畏怖を無くしたことが、
現代の精神文化を荒廃させていると主張します。
そのことに対しては僕も全く同感です。


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