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先祖供養 2 [仏教]

 先祖供養はしばしば批判を浴びます。批判されるのは「先祖を供養しないから不幸になる」「先祖供養しなければ悪い事が起こる」という主張と、それを主張する人々による金銭活動に対してです。
例えば「何代前の先祖の祟りがあるから、不幸なことが連続して起きる。その祟りを取り除くためには幾らかかる」という言葉を信じ、莫大な金銭を投じる人がいます。その人が「騙された」と社会に訴えれば、「宗教は詐欺」と批判を浴びることになります。

 しかし、詐欺か否かの境界線は明確ではありません。ただ、金銭絡みになった場合、その額が大きければ社会問題となります。常識的なお布施程度、つまり数万円のことであれば社会慣習上、それほど問題にならないはずです。

 宗教は危うさを常にはらんでいます。天国にしても、極楽にしても、それを信じない人にとって単なる虚構にしか過ぎません。
 先祖供養もまた、先祖の霊があるか、ないか、という論議になると、人によっては単なる虚構としてしか感じられないはずです。
 しかしその一方でその危うさが宗教の魅力ともなっています。その魅力は合理に対しての非合理という言葉で表現できるかもしれませんし、神秘的なものに対しての憧憬かもしれません。

 テーブルマジック(手品)が最近改めて注目されているようです。間近に、それもマジシャンの息が聞こえるほどの距離で手品師が演じるのですが、見ている側にはどうしても種も仕掛けも分からない。僕もそうした番組を見ながら、凄いなと思うのですが、そこには種も仕掛けもあるという大前提があり、そのことに対しての一種の安心感もあります。もし、種も仕掛けもなく、ガラスコップの底から十円玉が突き抜けるということがあれば、それはまさに宗教的な奇蹟ということになります。
 宗教が説く世界は、基本的に目に見えるもの、手で触ることのできない世界で、種や仕掛けという終わりはありません。


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