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目連尊者の母(8) [仏壇]

 どのようにすれば母親を餓鬼道から救い出すことができるのか。
 師匠である釈尊は目連尊者に次のように言います。

『具飯百味五果汲灌盆器。香油錠燭床敷臥具。
 盡世甘美以著盆中。供養十方大徳衆僧。』

 ご飯とたくさんのおかず、そして香油、燭、敷物、寝具を、僧侶に供えよというのです。
 これは、僧団側の一方的な論理のようも見えますが、布施という意味がここに集約されているとも言えます。

 日本の仏教教団の中には「物によって救いを求める『盂蘭盆経』」と批判し、仏教本来の救いはそんなところにはない、と主張する向きもあるようですが、宗教団体と雖も経済活動は必要です。

 物を供えるから救われるのではなく、それだけのお供えを出来る心が、救いをもたらすということです。お布施とは、そのようなものです。
 お布施で救われるのではありません。であれば、たくさんお布施を供えた人が救われるに違いありません。

 目連尊者は出家の身分ですから、自分自身が百味五果を購入し、十方大徳衆僧に供えることはできません。それは目連尊者なり、釈尊の信者がすることになります。そのために、目連尊者は、信者が納得できるだけの何かを、自らが具えることを要求されます。
 
 目連尊者は、釈尊の言葉を聞いた後、百味五果を集めるために、信者さんの家を回る必要があったはずです。いわゆる托鉢ですね。そこで目連尊者は盂蘭盆の意味を説いたはずですし、自分の母親のことだけではなく、信者さんの父母の救いのことも説いたはずです。
 そうでなければ、お盆のお供えは意味を無くしますし、広がりを全くもたなくなります。
 つまり、お盆は自分の父母や先祖の救いだけを目的として行うものではない、ということです。

実際に『盂蘭盆経』の中では、お釈迦様は、目連尊者にだけ語りかけるのではなく、そこに集まった全ての人々に語りかける、という設定になっています。


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