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山口智子さんの「手わざの細道」を見て [アート]

先日、テレビ東京で女優の山口智子さんが
輪島の漆器職人さんを訪ねる番組を放映していて、
思わず見てしまいました。

一番驚いたのは、ノースリーブの山口さんが
漆を塗る部屋に入る場面。
敏感な人だと(それも夏だと)、漆に近寄っただけでかぶれてしまうのですが、
山口さんはかぶれないのでしょうね。
僕はそうかぶれませが、やはり夏ですと、膝の後ろとか汗ばむところが
かぶれることがあります。

次々と登場するのは職人さんたち。
商売人さんが、登場しないのも印象的。
職人さんの仕事場に行き、そこで仕事を頼む。
当然と言えば当然のことですが、
おそらく輪島も商売人と職人さんの二つの世界があるでしょう。
その垣根があまり高くないのかしら。

漆器は個人的にもとても好きで、その都度買っています(職人さんから)。
使わないと、この良さは分かりませんね。

番組では井波の彫刻と、七尾の和蝋燭も紹介されていましたが、
井波の彫刻は中国・福建省の彫刻にもの凄く押されています。
井波の職人さん達は仕事の確保が大変でしょう。

七尾の和蝋燭は、手掛けではなく型抜き製法の紹介でした。

仕事も作品もともて興味深いのですが、
職人さんの生活の内容、仕事の量は当然のことながら紹介されません。
そこまで紹介する必要はないのですが、やはり気になります。

山口さんのテレビ番組のHPは下記の通りです。
http://www.tv-tokyo.co.jp/tewaza/


グリーンサプリのてるぷさん [アート]

昨日はボーカル(グリーンサプリ)のてるぷさんとお話し。
生声で何フレーズか歌を聴きましたが、なかなかどうして。
頑張ってくださいね。


佐伯祐三と佐野繁次郎展 [アート]

神奈川県立近代美術館葉山館で行われている「佐伯祐三と佐野繁次郎展」を見に行ってきました。

佐伯祐三はパリを描いた画家として有名ですが、亡くなったは僅か30歳の時のこと(昭和3年8月16日)。結核を患い、自殺未遂があり、精神病院に入り(精神病というより、心そのものが荒廃していた)、異郷の地であるパリの郊外で亡くなってしまします。

娘の彌智子が亡くなるのは二週間後の8月30日。

二人はパリ20区にあるペール・ラシェーズ墓地に埋葬されているそうです。

佐伯祐三の作品には妻・米子による加筆贋作騒動もありますが、いずれにせよ、吸い込まれそうな魅力のある絵です。




澤田政廣と神話の彫刻 [アート]

昨日は熱海の澤田政廣美術館に行ってきました。
古事記の女神達の木彫像が素晴らしかったです。
この記事は今週中に続く、とします。


松田権六展を見て想う 塗りも見所です [アート]

先日、東京竹橋の国立近代美術館工芸館で開催中の「松田権六の世界」を見ました。
松田権六は近現代の漆芸世界そのものをリードしてきた存在です。

松田権六は明治29年、金沢市で生まれます。金沢では様々な工芸が発達しましたが、現在自分が携わっている宗教用具関連の工芸としては、金沢仏壇、金沢金箔があります。
金沢仏壇は蒔絵に特徴のある仏壇ですが、松田権六の叔父、兄、従兄も仏壇関連の漆芸職人であったことがカタログには紹介されていました。松田権六は兄の仕事を手伝いながら、漆芸の道へと入っていったようです。

今回の「松田権六の世界」では松田権六の生涯をたどる作品が展示されていました。その一つひとつの蒔絵、様々な加飾技術は素晴らしいものがあると思いましたが、それ以上に目を奪われたのは、実は蒔絵などが描かれる漆黒の塗りの技術の確かさです。

松田権六はその晩年に「仕事に携わった工人の名前を記し」とありますから、作品によっては様々な人の協力の上に仕事を進めたことでしょうが、塗りは作品のベースとなる塗り自体も全て松田権六が手掛けたのでしょうか・・・・もちろん作品によっては松田が手掛けたものもあるでしょうが、お弟子さんが仕上げた作品もあることでしょう。

作品の塗りを見ると、艶と艶消しの二種類がありことが分かります。現在、自分の仕事の上で興味をもっているのが、この艶消しの塗りです。カタログの作品で言えば1-39「華文漆椀」が艶消しの作品です。

艶消しの作品は、漆の塗り面研磨を仕上げ段階の前段階(荒い仕上げ段階か)で止め、その上から摺り漆を掛け研磨して仕上げているのだろうと思いますが、どうなんでしょうか。
仏壇にもこうした艶消しの黒が欲しいと思います。

艶のある作品はいわゆる呂色仕上げと言われるもので、上質な呂色塗りは時間がたってもその艶を全く失わないということがよく理解できます。

さらに塗り面の角(エッジ)の立った感じがやはり素晴らしいと思いました。こうしたシャープな塗り面は現代の仏壇工芸の中ではあまり見ることができません。

当然のことながら木地師の腕の良さも透けてみえる作品ばかりでした。
工芸品は各職の腕の確かさで成り立っているということを再確認。

仏壇関連の人にも是非とも見て欲しい作品展です。



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柄澤齊(からさわ あきら)展を見る [アート]

  昨日は木口木版作家の柄澤齊展を鎌倉(神奈川県立近代美術館本館)に見に行きました。新聞屋さんから無料の招待券を頂いたので足を運んだだけのことで、柄澤齊さんの名前はそれまで全く知りませんでした。しかし、印象深い展示会で一挙に柄澤齊さんの世界に引き込まれました。
 
 木口木版というのは極めて精緻な木版画のこと、ということも初めて知りました。まるでエッチングのようです。

 全く予期していなかったのですが、訪れた時、丁度柄澤齊さん本人による公開制作が館内で行われていました。

 そこでご本人の様々な説明もあったのですが、普通の木版画は木の板目面を使用して行われるが、木口木版はまさに木口を版として使うということでした。公開制作では1800年代後半にイギリスで作られた木版用の「版画機械」も実際に使われていました。版となる木の素材としてヨーロッパの柘植(ボックスウッド)が使われるとの説明もありました。

 柄澤齊さんの木口木版画は時として幻想的あり、神秘的です。そして抽象的なものを表現しても、おそろしく具象的に見えるという不思議な感じがするものです。それは通常の木版画と違い、表現される線が非常に細かいということもあるでしょう(一ミリに5本の線を入れることも可能とのことでした)。細い線を緊密に描くということだけで言えばコンピューターの方が遙かに優れた能力を発揮すると思いますが、柄澤齊さんが描く線の細さはパソコンで表現できる線の細さをとは違う気がします。

 寒山拾得(かんざんじっとく)も描かれていて少し驚きました。もちろん伝統的な寒山拾得ではありません。現代人としての寒山拾得です。大好きなピアニスト、グレン・グールドの肖像もありました。

 カタログを購入するとサイン入りのミニ版画を頂けるということなので、ひとつ購入しました。女神が舳先で導く船の中で眠る子供という構図です。

 全く新しい表現の世界を知った一日となりました。


宝誌和尚 [アート]

 昔の仏像には恐ろしくリアルなものがあります。そのリアルさが、異形につながっていきます。どうして現代の仏師達は、こうした異形の仏を彫らないのでしょうか?お施主さんの要望がないからでしょうか?
 今回、東京国立博物館で開催されている「仏像展」には宝誌和尚像が出展されています。仏像というよりも肖像彫刻なのですが、まるで「脱皮」状態の彫刻です。
  
宝誌和尚が生きたのは五世紀(418~514)。十一面観音の化身と言われる神異の人でした。

今回出品されている宝誌和尚像は平安時代に一木で彫り上げられたもの。ナタ(鉈)彫りと呼ばれるもので、仕上げ彫りの前の状態で仕上がりとしているものです。美しく彫られている仏像に比べると、遙かに生々しいのが特徴です。木の中から仏が出現した時を表現しているような印象を与えてくれる技法がナタ彫りです。
 
梁の武帝(464~549)が宝誌和尚の像を描かせようとしたところ、顔が二つに割れ、寿一面観音が下から出現し、さらにさまざまに様相が変化したので、結局その姿を描くことができなかったという伝説があり、この伝説に基づいて作られたのが、今回出品されていた宝誌和尚像です。

梁の武帝は仏教の庇護者として知られた人で、ベジタリアン、つまり菜食主義を押し通した皇帝として知られています。

インドからやってきた達磨を接見したのもこの梁の武帝です。仏教を庇護した武帝は当然のように「朕は仏教を庇護し、寺を建て、経を写し」と自慢したところ達磨は「無功徳」と一蹴します。「しょーもないこと言うな」という感じです(造塔造仏をどれだけ行ったところで功徳はない、ということですが)

 梁の武帝に肖像を書かせろと迫られた宝誌和尚は変化(へんげ)するわけですが、それもある意味「しょーもないことするな」という含みを感じさせるものです。ただ達磨と違い、宝誌和尚は自身に内在する十一面観音を武帝に見せるわけです。「しょーもない」と思いながらも、変化してみせるところに興味がもたれます。
 そこがインド人の達磨と、道教という文化背景を持つ中国の差なのかもしれません。


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異形の仏像 一木造りの仏像たち [アート]

 先日、東京国立博物館で開催中の「仏像展」を見に行きました。

 個人的には「異形の仏像」が大好きです。端正で整ったお顔の仏像より、「なんだこのお顔は」という仏像の方が好きです。
 と知人に言うと、「もしかしてブス専?」と言われましたが、女性は美しい顔の方が当然好きです。はい。

 どうして異形の仏像に惹かれるのか。
 その理由は二つあります。

 一つの理由は、日頃仏壇仏具業界で目にする「売れる仏像」は全て端正な顔の仏像だからでしょうか。つまり、言葉は悪いのですが、「良いお顔」の仏像を見過ぎていることが一因だと思います。

 二つ目の理由は、仏像というこの世ならざる存在を、異形の仏像の姿の中により感じることができるからです。


舟越桂さんの彫刻 [アート]

 彫刻家舟越桂さんのことを知ったのは、ハードカバー版「永遠の仔」を読んだ時のことです。「永遠の仔」のカバーデザインは舟越桂さんの彫刻でした。その中空に浮かぶような存在感を不思議な思いで見つめたことを、今でもよく覚えています。
 そうこうするうち、近所のカトリック教会の聖母子像が舟越桂さんの作品であると知り、彼の作品を身近に感じることができるようになりました。

 舟越桂さんの彫刻は大半が楠を素材として作られているそうです。皆さんは、楠の香りをご存じですか?そうです、いわゆる樟脳の香りです。樟脳の樟とは楠のことです。

 かといって楠の香りが、いわゆる樟脳の香りそのものというのではありません。もしそうであれば「なんか、ナフタリン臭い」ということになりかねません。

 僕自身は楠の香りを嗅ぐと、台湾のことが脳裏をよぎります。今から二十年ほど前、初めて訪れた台湾・台中の仏像職人さんを取材で訪れた時、そこには楠の香りが満ちていました。楠を主材として仏像を彫刻していたからです。
 当時、台湾には日本向けの仏像を彫刻するメーカーがたくさんありました。今では日本向けの仏像を作るメーカーの多くは中国へと移りましたが(コストの関係です)、中国でもやはり工房に入ると楠の独特の香りが満ちています。規模の大きな工房になると、巨径の楠丸太をたくさん持っているところもあります。

 舟越桂さんの彫刻は内面的です。僕にはなんだか中空を漂う、一種の存在感のない、そでいて深い印象と記憶を与えてくれる彫刻に見えます。
 
 舟越桂さんが仏像を彫刻すると、どんな仏像を彫るのでしょうか。
 きっと、深い存在の悲しみに満たされた仏像を彫ることでしょう。
 人々はその悲しみに救われるのです。

 そう思うと、彼は現代を代表する仏師であるとも言えます。
 そこには、やはり楠の香りが漂っているに違いありません。

http://funakoshi.navicross.jp

 上記は舟越桂さんのHPです。興味のある方はどうぞ。


安川幸聖理さんの個展 神話としての截金 [アート]

先日、安川幸聖理(みまり)さんの截金art展を伊勢丹新宿本店アートギャラリーで拝見しました。
 流木・古木に施された截金(きりかね)は、まるで密かに語られる神話のようでした。

 截金(きりがね)は細く切った、まるで糸のような金箔を素材に貼り文様を表現する技法で、仏像の文様を描き出す技として日本に伝えられました。
法隆寺金堂の四天王像、東大寺戒壇院の四天王像にはこの截金が施され、その後も仏教美術の表現技術として華やかな世界を演出してきましたが、その世界は例えば彩色などに比べると、細々として伝えられてきたに過ぎません。

 細々と、と書きましたが、それは仏像の世界に留まっていたからで、ここに来て截金は工芸の世界で注目される存在になりつつあります。その世界を切り開いたのが人間国宝・江里佐代子さん。京仏師江里康慧師に嫁いだ江里佐代子さんは仏像装飾の截金からスタートし、工芸の世界で截金を一分野として完全に確立させました(江里佐代子さんは今秋・銀座和光で久しぶりの個展をご主人の京仏師江里康慧師と共に開催します。案内も頂いており、今からとても楽しみです)。

 截金作家の安川幸聖理さんは一九七五年生まれ。父上は宮絵師・安川如風師。安川如風師は、京都における彩色の第一人者として知られている方で、僕自身お伺いするのを楽しみにしている一人です。とても楽しく、いつも本音で話す方です。

幸聖理さんは一九九九年に成安造形大学デザイン科を卒業。専門は住環境。在学中から父・如風師の工房で截金を学び、卒業年にはすでに截金art展を京都で開催しています。

  これまで截金は一定の規律の中で表現されてきました。それは仏像という決まり事の多い世界を装飾する技としては当然のことでしたが、現在では古典として仏像装飾という世界を離れ、作者の世界観を表現する装飾技術としてその世界を広げつつあります。江里佐代子さんはその第一人者です。

 幸聖理さんは、大枠でいえば截金の世界の一翼を担っていますが、その世界は、截金が自らを縛ってきた「規律」という引力から離れたところでの表現を目指しているようです。それは幸聖理さんが流木・古木民具という不規律(イレギュラー)なものを素材とすることで生まれてきています。

 流木や家財として使われてきた流木や古木民具は、神話やおとぎ話のような存在です。なぜなら、新しく作られる存在ではなく、それを作り出すための長い時間の堆積を必要とするからです。そこに截金が施されることで、流木や古木民具は突然、人を魅了する物語となります。

 彼女の作品の印象は地中深く掘った所で出会う金鉱脈のイメージ。時間の膨大な堆積の中で光る金鉱脈、それが流木に描かれた幸聖理さんの截金です。これから彼女が、どのような鉱脈を掘り当てて行くのか、楽しみにして行きたいと思います。

(幸聖理さんの表記に謝りがありましたことを深くお詫び申し上げます。10月25日訂正)


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